戦士たちの系譜 vol1 
山口幸二 「甲子園で常識を差した男」
98年9月1日 甲子園記念決勝日

最終レース開始直前になって雪塊のような大粒の水滴が、気まぐれのように落ちてきた。
レースの号砲が鳴り、周回が進むにつれ、それはやがて少しずつ空に占める割合を増やしてきた。
「小橋のヒゲ野郎、落ちちまえ」とのたまう物もいた。
レース中の選手は皆、集中していて客の声が耳に入らないはずなのだが、小橋はまるでそれが聞こえていたかのように残り1周の肝心な所で前につんのめり、先に倒れていた金山と共にガラクタの一部となった。その横を難を逃れた吉岡が4WDの如く力強い加速を見せ、松岡に襲い掛かった。

 気がつくと直線。松岡から切り替えた山口が吉岡に迫る。それでも客たちは吉岡が粘りきると信じていた。
「ぐっ、」
客の声。ハンドルの一伸びが山口の初の完全記念Vを決めた。右手を上75度の角度で上げた山口の横では金田も含めた塊たちが3つ横たわっていた。
 いや、2つだった事を観客たちは50秒後に知ることになる。金山がゴールする前後だけ観客たちは温かい声援を送った。そしてその後また金山はその場にへたりこんだ。タンカが用意された。
どうも小橋は動かない。大丈夫だろうか。
山口は両手を挙げていた。ハンドルには触る物は何もなかった。
 ただの水滴と思われたものが本当の雨に変わるまで、それからは僅かの時間。

 雨の中での表彰式となった。役員たちはカサがあるのにインタビュアにはカサがない。あわてて一人の女性がカサを持ってきた。競争係と写真写り用のモデルはカサはない。
 山口が出てくると雨はやみ、役員たちは丁寧にバンクにカサを置いていく。そんなことは関係なく今日の主役は最後に叫ぶ。
「長らくの間、ご愛好・・・」
あ、違った。
「長い間、お待たせしてすいませんでしたー!」
場内から拍手の嵐。「コーチャンー!こーうじー!」と繰り返し叫ぶ奴はいたが。
客プレゼント用のカラーボールを一方向にしか投げなかったのは困り者だがまあいい。
雲は切れ、スタンドのコーナー部分の大カーブを人の列車がゆっくりと駅に向かっていた。
足取りのほとんどは重い。
ここでは儲ける人などホンの一握りだ。
その頃外では救急車が待機していた。あのタンカはどこに行ったのであろうか?

 山口幸二の今回の優勝はただ恵まれてのものではなかった(松岡が先行したのは必要条件だったが)。捲った吉岡に3角で切り替えて番手の池尻を飛ばし、そこからは・・・。常識では差せない展開、なのである。
小さな巨人がその常識をゴール前で差して甲子園ゴールデン杯後節は幕を閉じた。

そしてこの男は、その後9月27日・12月30日と常識を再び差した。