「輪界で男を上げるぞ・筒井陽一(兵庫81)」2001.07.13付掲載 データ

 2001年7月向日町53(4)は惜しい内容だった。「勝負所で佐藤成人(奈良71)さん、梶原秀傭(大阪77)の3番手。自力型という大前提を忘れたわけじゃないが、“直線勝負で好勝負になるゾ”と仕掛けをためらった結果、着外ですわ」(筒井談)。前場所の6月小松島12(1)で、「3番手大外強襲から、倉岡慎太郎(熊本59)さんや、大前寛則(岡山57)さんら相手にA級初優勝した」(筒井談)その時の脚の感触が向日町でも残っていた? 「けど、追い込み策は、まだ慣れていないことが分かった。当分は自力基本。抑え先行を基本に、パワーをつけていくしかない!」(筒井談)

[生まれ]昭和54年1月9日

[体格]178センチ73キロ。太もも59センチ。血液型A型。性格は「気分屋」(筒井談)

[成績]1着63回。2着39回、3着18回。過去A級優勝1回。2001年前期A1班、2001年中期A2班

[ハングリー精神]母親の雅江さん(47)は、師匠になる野山明範(兵庫53)の実姉にあたる。「兵庫工業高校・自転車部から、81期生をパスした」(筒井談)。競輪界で男を上げるために「絶対に踏ん張りとおす」(筒井談)

[ウエートトレで躍進]「いずれは自在がかった自力型になりたい」(筒井談)。高城信雄(兵庫77)、平田哲也(兵庫59)、川木敬大(兵庫82)が練習仲間。「平田さんにウエート・トレーニングをみっちり叩き込まれてから、力がついてきた感じですよね」(筒井談)


「踏み出し鋭いスプリンター・佐藤成人(奈良71)」2001.07.06付掲載 データ

 この2001年8月、丸4年にぶりにS級に復帰する。椎間板ヘルニアで“地獄”を見た時期もあり、選抜戦でも四苦八苦の状態が続いた。だが、2000年2月、結婚を機に、大阪から奈良に転籍してからは、徐々に全盛期の鋭さを取り戻し、ことし6月には奈良で11(1)と、転籍後、初の地元Vを成し遂げた。

[生まれ]昭和49年1月15日(当時1月15日は「成人の日」。そこで成人(なると)と名づけられたらしい)

[体格]171センチ75キロ。太もも60センチ。血液型B型。性格は「大ざっぱ」(佐藤談)

[成績]1着123回。2着105回、3着83回。過去A級優勝9回。2001年前期A1班、2001年中期S3班

[名スプリンター]何が何でもバック線を取るという“強引駆けタイプ”ではなく、踏み出しの鋭さが自慢のスプリンター。「一瞬のダッシュ力は凄い。ジカマークしてたら、千切れてしまう」はも同郷・大井健司(奈良54)の証言。射程圏内にうまく切り抜けて、まくり先行に出るのが得意のスタイルだ

[夢]「同期のナンバー1・伊藤保文(京都71)さんみたいにヨコも器用にこなせる自力型になりたい」(佐藤談)。練習の感覚も「ヘルニアになる前よりむしろいい」(佐藤談)らしく、S級では“新生・佐藤”をアピールしていきたい考えだ


「将来はマーク屋が夢・宮本圭久志(京都79)」2001.06.29付掲載 データ

 2000年9月の向日町記念で追走義務違反を犯し、半年間の欠場を余儀なくされた。復帰は2001年3月。「半分ふてくされて休んでいたけど、3場所目の3月大垣13(9)で決勝入りできた(笑い)。ただ4月からは欠場のツケでB級転落です」(宮本談)。それでもB級に落ちれば、脚勢の点で他とは大違い。4月広島、5月富山、6月門司で混戦をかきわけ、「追い込み勝負で決勝2着」(宮本談)。に健闘。その後、6月びわこで同期の佐々木武司(滋賀79)ら相手に軽く11(1)。完全Vを遂げ、“宮本強し!”をファンにアピールした。

[生まれ]昭和47年10月13日

[体格]173センチ77キロ。太もも59センチ。血液型B型

[成績]1着60回。2着53回、3着31回。過去B級優勝6回。2001年前期B1班、2001年中期B1班

[マーク屋が理想]「早くA級に戻りたい。だから今は先行、まくり、追い込みと何でもやって、“勝ち”を優先する走りです」(宮本談)。ただ将来は追い込み、マークで戦いたい考え。「A級で戦った感触では、ボクの自力では底が知れてます。厳しい立ち回りもできるマーク屋が夢」(宮本談)

[生まれは岡山]山田英之(京都52)が師匠だが、もともと岡山県玉野市出身。服部仁(岡山72)は、玉野市日比中学時代の同級生だ。「玉野高校へ入ってからはサッカーをやってました。その後、大阪体育大学を中退、競輪界をめざしました」(宮本談)

[将来は故郷へ?]母親・明美さんの知人の紹介で山田英之の指導を受けることになったが、「この先、岡山に戻ることがあるかも」(宮本談)と話す


「児玉型フレームで急上昇・望月裕一郎(静岡65)」2001.04.20付掲載 データ

 2001年4月、晴れてS級に初昇級した。立ち回りの機敏さが一番の自慢。「同期の精鋭がS級にはいっぱいいる。一緒に走れてうれしい」(望月談)。初戦の富山521着の最終日特選では俊敏な切り替え策で、同期の山本真矢(京都65)や、坂上忠克(石川71)、和泉田喜一(千葉59)に快勝と踏めている。またこの望月、佐久間仙行(東京62)の“ソックリさん”としても、選手仲間ではおなじみだ。

[生まれ]昭和45年5月18日

[体格]172センチ80キロ。太もも66センチ。血液型O型

[成績]1着143回。2着120回、3着125回。A級優勝6回。2000年後期A1班、2001年前期S3班

[児玉型フレーム]昨年、タテパイプが83度という、いま流行の“児玉広志型フレーム”に換えたら、急に成績がまとまり出した。「適正出身(陸上競技=100メートル走で10秒8)でダッシュには自信があった。児玉型フレームはダッシュを生かすのには、うってつけでしたね。競争得点がアッという間に10点上がって、もうビックリしました」(望月談)

[国持レーシング]国持晴彦(静岡41)が師匠。当然「静岡の伝統である“マーク道”、この先きわめたい」(望月談)という。ハコ勝負を基本スタイルに、3番手からの追い込みも併用。目標不在なら、切れ目からまくりを打つか、切り込みも考えて立ち回る。

[今後]「地区ライン、それに同期ラインを大事にしながら、ヨコの動きをもっと覚えて、特別競輪や、S級1班をめざしていく」(望月談)


「福井残留組のリーダーへ・松山勝久(福井73)」2001.03.16付掲載 データ

 4月に待望のS級。近畿の73期生としては、村上義弘(京都73)、松田治之(大阪73)に続き3人目のS級機動戦士が誕生。「A級で手こずったが、これでいい。今からが本当の意味での勝負!」(松山談)と、武者震い

[生まれ]昭和49年12月11日

[体格]175センチ84キロ。太もも63センチ。血液型O型

[成績]1着105回。2着101回、3着68回。A級優勝13回。今期A1班、来期S3班

[輪界入りの動機]幼いころから競輪選手を夢見て、福井では自転車の名門として知られる科学技術高校へ。「今は金より名誉と、考えるようになりました。ほとんど面識はないけど、澤田義和(兵庫69)さんが理想像。あの人のような先行屋になりたい」(松山談)

[近況]正月福井、2月向日町、岸和田と立て続けに優勝。「特に岸和田の優勝は連日“◎”の印を背負っての、初の完全優勝。うれしかった」(松山談)

[戦法]先行屋というより、自らのことを“カマシ屋”と表現。「とにかく最終バックを取ることを念頭に置いている」(松山談)。A級戦での戦い方をS級に上がっても変えるつもりは、毛頭ない。「ボクは負けず嫌い」(松山談)と自己分析している

[私生活]2000年秋、結婚。淳子夫人は4月に女の子を出産予定。師匠の清嶋彰一(沖縄40)が沖縄に転籍後は、渡辺航平(福井79)・十夢(福井85)兄弟や、刀根隆純(福井83)ら清嶋門下の(渡辺十夢は松山の直弟子)“福井残留組”をまとめる若きリーダー格として、重要なポジションにある


「A級復帰で大暴れ。豊橋勢の“新勢力”へ期待・渡邉健(愛知76)」2001.03.09付掲載 データ

 事故点制度の緩和が、この男を急上昇させたか。2000年度中期(8〜11月)は事故点過多でB級へ転落していたが、A級復帰した今期は大暴れ。2月地元豊橋でA級初優勝。つづく奈良でも連続V達成。3月西宮でも11(2)と好調維持

[生まれ]昭和48年4月16日

[体格]160センチ68キロ。血液型O型

[成績]1着77回。2着68回、3着58回。今期A3班、来期A2班

[輪界入りの動機]父親の貞夫さんが大の競輪ファンで、子供の頃から競輪に慣れ親しんでいた。「小学6年生頃からプロ入りを意識し始めた。ロードレーサーに乗ったのもそのころから」(渡邉談)。その後樋口和夫(愛知33)にデシ入り」

[近況]「練習量の増加もあるが、気持ちの面で負けなくなって成績がアップした」(渡邉談)。最近5場所15走で1着9回、2着2回。とにかく決め足は鋭い。3月西宮の決勝は、豊橋勢・加藤寛治(愛知82)目標から、3角半抜け出しも、藤野淳司(兵庫40)の強襲を食い、決勝2着と惜しい星を落とした

[戦法]スプリンター。「地足はからっきし」(渡邉談)。先行ジカマークが理想の展開だが、目標不在なら番手へ切り込む競走も。「まくって2度優勝してるけど、本当いえば、まくりは好きではない」(渡邉談)。実際の気持ちとしては本格的な“ガッツなマーク屋”になりたい意向のようだ

[今後]「1期だけでもいいからS級で走ってみたい」(渡邉談)


「A級昇格まで逃げに徹する・真鍋伸也(香川85)」2001.03.02付掲載 データ

 競輪選手としては未完成。B級予選でも四苦八苦のありさま。が、高校時代に輝かしいアマチュア実績があるだけに、きっかけひとつで大変身の可能性はある。2月観音寺12(2)では、強引な逃げが初めてB級上位戦で通用した。「とにかく逃げだけを考えて走る!」

[生まれ]昭和55年7月12日

[体格]180センチ82キロ。ふともも60センチ、血液型AB型

[成績]1着8回。2着5回、3着6回。来期(2001年4月から)B1班

[輪界入りの動機]県立石田高校在学時、全国高校総合体育大会3000メートル個人追い抜きで優勝。さらに全国高校選抜体育大会やJOCジュニアオリンピック大会でも同種目でVと、全国でも話題を集めた逸材だった。昨年秋の四国地区プロでも、鳥生知八(愛媛77)相手に、4000メートル個人追い抜きで優勝

[近況]デビュー7場所目の10月観音寺183着が初の勝ち星。その後暮れの高松14(4)で決勝入り、2月の観音寺で初の決勝連がらみ

[戦法]典型的な地足タイプ。出切る流れでこそ、持ち味を発揮する。まくりはまるできかない。デビュー当時は、他の選手にヨコに並ばれただけで萎縮するようなところがあったほど。「やっと実戦慣れしてきました。でも脚力自体は、以前と変わりない」(真鍋談)

[今後]アマの実績が即、競輪の実績に反映するわけではないが、“何か”を契機に、おもしろいように勝つ可能性はある。「A級にあがれるまでは、全部のレースで最終バックを取るつもり」(真鍋談)ときっぱり


「自力で戦う九州の機動戦士・山崎岳志(佐賀74)」2001.01.05付掲載 データ

 頚椎損傷が原因で低迷。A2班陥落の一時期も。が、昨秋あたりから復調。10月防府71(2)をはじめ、暮れの小倉154では、まくり一発で久々に初日特選を快勝(入江新吾、中川博司を下す)

[生まれ]昭和48年8月25日

[体格]173センチ72キロ。ふともも60センチ、血液型AB型

[成績]1着93回。2着70回、3着56回。A級優勝3回。今期はA1班

[戦法]「最近は勝てる先行を考えて、仕掛けはやや遅くなった」(山崎談)。それでも自在、追い込み型に変わるつもりはなく、自力で戦う姿勢に変わりはない

[プロ入りの動機]「多久工業高校時代からロードレーサーに乗っていたけど、これは遊び程度」(山崎談)。その後、社会人を経験した後、「スポーツで身を立てたい」(山崎談)と、井上茂徳(佐賀・引退)に弟子入り

[鬼師匠]「とにかく(井上さんは)無茶苦茶練習がキツかった。“付いてこれんのならヤメろ!”というわけです。ついでにいうと、現役当時より、今の師匠はもっと怖い。CS放送でボクの競走を見てるようで、へたな競走をすると電話がかかってくる」(山崎談)

[課題]80期代の若い先行屋に付かないといけない場面も、しばしばある。「でも、うまく走れない。他のラインに叩かれても、変に前をかばったりして・・・・・・」(山崎談)。とにかくレース運びにシビアさが足らない点に問題があるようだ

[あこがれの選手]吉岡稔真(福岡65)


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